年に4回、法人ニュースを会員向けに発行しています。中島純副代表のコラムは人気があります。今回も力作が届きましたのでご紹介します。哀愁漂う素敵なコラムです。
このオヤジっ!
副代表理事 中島 純
世の“中年オトコ”には二種類いる。“だらしない中年オトコ”と“そうでない中年オトコ”である。
前者はオヤジと呼ばれ、周囲から蔑みの目で見られる。かっこいい中年オトコはオヤジとは見られない。郷ひろみに舘ひろし、福山雅治はリッパな中年オトコだが、オヤジではない。
オヤジはなぜだらしないか、いや、タイトルの論の立て方があやまっている。だらしないからオヤジなのである。あえてカタカナで書くオヤジとは、即ち、だらしない中年男のことである。カタカナのオヤジは、そのまま年をとると、カタカナのジジイになり、醜悪の度を強めるとクソジジイと呼ばれるようになる。
ちなみに、あたしは家ではオヤジである。こないだも、ビールで晩酌をしていたら大きなゲップが出た。これに小学3年生の娘があきれ顔で即座に反応した。「気持ちわるっ!もー、いやだなぁ~、このオヤジっ!」。
最愛の娘から怒気とともにオヤジと罵られ、ショックだった。このごろ付き合い悪いなーと感じていたのでなおさらだった。成長とともに多感になった娘の目に、父親は醜く映ったのである。一体そんな言葉をどこで覚えてきたのだろう?やはりテレビか?その場に妻もいたが、何事もなかったかのように無反応であった。新婚時分は、食事の時にゲップしたり、食べた物をポロポロこぼすと注意してくれたが、今となっては完全にあきらめてしまったようで、苦言を呈することがなくなった。
若いうちは、だらしなくしていると周りが注意してくれた。家族に限らない。背広にフケが落ちていれば払ってくれたし、シャツの襟が立ったままだと直してくれた。靴ヒモがほどけていれば気づかせてくれたし、社会の窓が開いていても、鼻毛が伸びていても、近くの誰かが教えてくれたものだ。ときに、「いい男が台無しだよ」とお世辞まで添えて……。身だしなみに限らない、居酒屋やバーでもそうだ。お酒が過ぎると、「お客さん、もう、これくらいにしときな」とグラスを取り上げてくれたりした。
だが、加齢とともにそのような親切を人から受けることは次第になくなってくる。それは、自分より年長の人間が少なくなるからだ。裸の王様みたいなもん。まわりが人生の先輩ばかりだと、自己管理が甘くても、“子どもあつかい”ならぬ“若者あつかい”してもらえる。ところが、いざ自分が先輩になってしまうと、気にはなっても物を言いづらくなってしまうのだ。あたしだってそう、貫録たっぷりに訓辞を垂れている上司に向かって、「あのー、鼻毛伸びてますよ」とはいいづらい。ねっ、わかるでしょ!
もう一つある。愛想が尽きて、あきれられてしまうのだ。「やれやれ、いい年して情けない、でも、しょうがない、オヤジだもの」と見限られるのだ。もちろん、心ある人は笑っている。「ああはなりたくないな」と。人間、ブザマがきわまると、「もう、手遅れだ」と思われてしまう。そう思うと、人にあれこれいってもらえるうちが花だね。
だから、妻でも子でも、職場の上司でも同僚でも、注意されたら。「教えてくれて、ありがとう」と礼をいおう。細かいことにいちいうるさいな、という表情でリアクションしてはいけない。あなたのためを思ってくれているから気づかせてくれるのだ。不快な表情も忠告のサインとして受け止めよう。周りの引いた目にたいがいのオトコは鈍感である。何もいわれなくなったらそれこそお仕舞いだ。
ただ、自己点検整備できなくなったベテランは高齢を理由に同情されることで人から世話を焼いてもらえる。ところがオヤジは人から同情されない。なので放置されることが多くなる。
もし、時すでに遅しで、周りからなにもいってもらえないオヤジになっていたら、鏡を見る習慣を付けるしかない。放っておくと、オヤジ化は加速的に進む。不快をばらまくオヤジは人から慕われることはない。品性のない人間は信頼を得られない。おのずと家庭でも職場でも孤立する。いまの世の中、孤独ほど怖いものはない。
娘のひと言があってからあたしは、オヤジ化の進行を押しとどめるべく、一日に最低5回は鏡を見るようにしています、はい。